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茨城県東茨城郡
大洗町磯浜町 8231-4

TEL.029-267-2276
FAX.029-267-0069


幕末動乱の契機となる瞬間を活写した「桜田門外襲撃図」や最後の将軍・徳川慶喜公の書をはじめ、幕末から明治期の志士・先人達の書画・遺品を数多く収蔵しています。また、茨城や大洗ゆかりの日本画・工芸品も収蔵しています。
ここでは、主な収蔵品から11作品をご紹介します。

>> 推定模型 旭日丸 (あさひまる)

>> 「四時行楽我輩亦 風月主人」 山岡鉄舟筆

>> 「著明莫大乎日月 崇高莫大乎富貴」 徳川慶喜筆

>> 「臣罪如山今日行 檻輿何顔拝帝京 云々吉田松陰筆

>> 「蘭陵美酒鬱金香 玉椀盛來琥珀光 云々」 西郷隆盛筆

>> 錦絵 愛宕山集合之図 (あたごやま しゅうごうのず) 月岡芳年画

>> 扇子 「絶壁危巌路極難 云々 藤田東湖筆

>> 錦絵 禁門の変 (きんもんのへん) 小林清親画

>> 桜田門外襲撃図 (さくらだもんがい しゅうげきず)

>> 好文亭四季模様之図 (こうぶんてい しきもようのず) 亘セン幽画

>> 春秋山水図屏風 (しんじゅうさんすいず びょうぶ) その一 田中頼章画




推定模型 旭日丸 (あさひまる)

 1853(嘉永6)年、ペリー艦隊が来航し,幕府は同年9月に国防のため大船建造禁止令を解き、11月水戸藩に建造を命じた。 藩主斉昭[なりあき]は自ら采配をとり、江戸石川島の造船所で建造した西洋型の木造軍艦である。1854(安政1)年に造船作業に着手し、約2年半の歳月をかけて完成した。全長42.3m(23間1尺)、全幅9.7m(5間2尺)、深さ7.3m(4間)、推定排水量750トンで、当時国内では最大級の軍艦であった。

 ただ帆船であったため、すでに世界の主流は蒸気軍艦に移っており、活躍の場は少なかった。しかし、輸送船として活用され、明治維新後も使用された。なお、揚げている「日の丸」は、幕府が外国船と識別するため、日本製軍艦に国旗として、揚げるように制定したことによる。



「四時行楽我輩亦 風月主人」 山岡鉄舟筆

縦214×横73cm

 紙を直接畳の上に置き、一気に書き上げたもので、文字に畳の模様が見られ、豪放な作品である。

山岡鉄舟 [やまおか てっしゅう]1836(天保7)年〜1888(明治21)年
 幕末・明治の剣術家・政治家。江戸生まれ。名は高歩、通称は鉄太郎、鉄舟は雅号。千葉周作の門に入り、のち無刀流を開く。また剣術を山岡静山に学び、その妹と結婚し、山岡家を継ぐ。義兄の高橋泥舟[たかはし でいしゅう]らと江戸治安にあたり、西郷隆盛[さいごう たかもり]と会見し、江戸無血開城の糸口をつけた。維新後には1871(明治4)年11月茨城県参事に就任し1ヶ月弱であったが、初代知事となった。その後、宮内省に入り、明治天皇の側近として、侍従、宮内少輔となり、1885(明治18)年に子爵を授けられた。



「著明莫大乎日月 崇高莫大乎富貴」 徳川慶喜筆

縦130.0×横51.0cm

七言二句。「著名なことは、太陽や月に優るものはなく、崇高なことは、富貴に優るものはない」の意。

徳川慶喜 [とくがわ よしのぶ]1837(天保8)年〜1913(大正2)年
 水戸家九代藩主斉昭[なりあき]の七男。幼名・七郎麻呂[しちろうまろ]、字は子邦[しほう]、号は興山[こうざん]
 七郎麻呂は11才の時、将軍の指示により一橋家を相続し、元服して、従三位近衛中将に叙任され、十二代将軍家慶[いえよし]の一字を賜り慶喜と改めた。
 1866(慶応2)年、十五代将軍に就任し、幕政改革・軍制改革に着手、つねに高圧的な討幕府と対峙し、その誉れ高い英知をもって政治的困難を乗り越え、自らの決意によって徳川幕府の幕引きである大政奉還(たいせいほうかん)を演じた。
 明治維新により、慶喜は政治の表舞台より去る。静岡時代(1897 明治30まで)は、ごく一部の身内との交流を除いては、外部との接触を避け、鷹狩り、投網、能、自転車、写真撮影など多彩な趣味に打ち込んでいた。そして東京転居後、明治天皇との謁見が実現し、一時は朝敵とされた慶喜は、名誉回復を果たしたことになる。さらに公爵を授けられ、維新の功労者の一人と評価されるようになったのである。



「臣罪如山今日行 檻輿何顔拝帝京 云々吉田松陰筆

縦126×横57cm

 七言律。この漢詩は、松陰の門人、入江子遠[いりえ しえん]が、獄中で松陰の東送の報を知り、悲しみのあまり、詩一篇を作って贈るとともに、終身誓ってこの詩を用いないと言った。そこで、松陰がこの詩に対して、入江の哀情に答えたものである。


吉田松陰 [よしだ しょういん]1830(天保元)年〜1859(安政6)年
幕末の勤王派志士、思想家、教育家。長州藩士。山鹿流兵学師範吉田家を継ぐ。名は矩方[のりかた]、通称は寅次郎、別号に二十一回猛士。江戸に出て山鹿素水、佐久間象山らに学ぶ。
 1854(安政元)年、ペリー再航のとき、密航を企てたが失敗して投獄される。赦されたのち、1857年、松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。死までの僅かな期間に高杉晋作[しんさく]、久坂玄瑞[くさか げんずい]、伊藤博文[ひろぶみ]、山県有朋[やまがた ありとも]ら約80人の門人を輩出した。翌年の幕府の違勅調印という事態に直面して、老中間部詮勝[まなべ あきかつ]襲撃を計画し、失敗。翌1859(安政6)年安政の大獄により刑死した。



「蘭陵美酒鬱金香 玉椀盛來琥珀光 云々西郷隆盛筆

縦126×横59cm

 七言絶句。唐の李白の詩「客中作」(旅にあたってのうた)を西郷が墨書したものである。「蘭陵の地でできる美酒、鬱金香。玉杯いっぱいに注げば、琥珀の光を放っている。ただこの酒宴の主人が、旅の客たる私を充分に酔わすことさえ出来れば、なに、どこが知らぬ他郷などと思うものか」の意。

西郷隆盛 [さいごう たかもり]1827(文政10)年〜1877(明治10)年
 幕末維新の政治家、薩摩藩士。通称は吉之助、南州と号す。藩主島津斉彬[しまづ なりあきら]の命により、将軍継嗣に徳川慶喜[よしのぶ]擁立に奔走したが、安政の大獄により挫折。のち禁門(きんもん)の変・第1次長州征伐にて活躍。さらに薩長連合、王政復古、戊辰(ぼしん)戦争を指揮する。維新政府にて参議となり、廃藩置県の断行にあたり、ついで陸軍大将となる。明治6年征韓論(せいかんろん)を主張したが、入れられず下野(げや)し帰郷。政府の挑発と不平士族の暴発により、10年西南(せいなん)戦争をおこし、敗退して城山で自刃(じじん)した。



錦絵 愛宕山集合之図 (あたごやま しゅうごうのず) 月岡芳年画

縦37×横70cm

 桜田門外の変をおこした水戸・薩摩藩の18人が、1860(万延元)年3月3日の早朝、雪降るなか芝愛宕山に集合し、これから井伊直弼[いい なおすけ]の暗殺に出掛ける準備をしている様子を描いている。

 錦絵は、多色摺(ず)りの版画で、それまでの黒摺りや筆彩色のものと違って「錦」を見るように美しいことから呼ばれ、画工・彫工・摺師の共同制作による総合芸術。錦絵は鈴木春信[はるのぶ]により、1765(明和2)年頃より始められた。作者の月岡芳年[つきおか よしとし・1839〜92]は歌川国芳の門に入り、浮世絵を学び、芳年の画名を与えられた。歴史上の人物を描くのを得意とし、洋画法も摂取している。明治10年頃から新聞挿絵に活躍した。



扇子 「絶壁危巌路極難 云々 藤田東湖筆

巾44×長26cm

扇に七言絶句の詩を書いたもの。

藤田東湖 [ふじた とうこ]1806(文化3)年〜1855(安政2)年
幕末の水戸藩儒臣。幽谷の子。通称は虎之介、名は彪[たけき]、東湖と号す。九代藩主斉昭[なりあき]の信望厚く、人物および学問ともに水戸藩の第一人者であり、広く全国の志士、横井小堀・橋本左内らと交遊し、当時の勤王派志士の指導的地位を占めていた。特に藩政改革や弘道館(こうどうかん)の創設などは彼の貢献が大きい。
 1855(安政2)年10月2日の大地震により江戸小石川藩邸で圧死したのはまことに残念である。



錦絵 禁門の変 (きんもんのへん) 小林清親画

縦36×横71cm

 明治になってから描かれた禁門の変の錦絵。絵の中央、愛馬飛電に乗っているのが徳川慶喜[よしのぶ]。右手の門の前に腰掛けるのが松平容保[まつだいら たかもり]である。作者の小林清親[こばやし きよちか・1847〜1915]は旧幕臣。西洋の技法を取り入れた錦絵を描いた。

禁門の変
 1863(文久3)年8月の政変で、三条実美[さねとみ]ら七卿とともに京都を追われた長州勢は、翌64(元治元)年夏、藩主毛利敬親[もうり たかちか]父子の雪冤(せつえん)と攘夷の実行などを要求して三千の精兵を動員、続々と京都に迫った。御所を守護する幕府側は、会津、薩摩を主力に越前、彦根、桑名など在京の諸藩兵約8万が応戦し、慶喜が病身の京都守護職松平容保にかわって禁裏守衛総督として指揮をとった。長州勢は戦略、戦術の策なく各所で大敗。この戦いで京都市中の三分の二を焼失した。



桜田門外襲撃図 (さくらだもんがい しゅうげきず)

縦40×横154cm



 有名な桜田門外の変を描いたもの。図中の白タスキをかけているのが、尊攘派武士たち。図の左側に太刀先に首を刺して走っているのは、有村次左衛門(薩摩藩士)で、彼が井伊直弼[いい なおすけ]を討ちとったとされている。

桜田門外の変
 1860(万延元)年3月3日、大雪の江戸城桜田門外で水戸の浪士らが大老井伊直弼を殺害した事件。勅許を待たずに調印した安政仮条約、続いて安政の大獄と井伊大老の強引な幕府集権政治は、早くから反発され、直弼排撃の運動を誘引していた。計画立案は、高橋多一郎と金子孫二郎、実行は関鉄之助の指揮下、斉藤監物[けんもつ]・鯉渕要人[かなめ]・蓮田市五郎ら17名の脱藩の水戸浪士と在京の有村次左衛門[ありむら じざえもん](薩摩藩)でおこした。多くは自刃、自首して斬罪、捕斬となり、存命したのは2人。この事件が幕府の権威の失墜をもたらし幕末史の一大転換を開いたことは特記されてよい。



好文亭四季模様之図 (こうぶんてい しきもようのず) 亘セン幽画

縦163×横280cm

 

 通称「四季之図」と言われる。水戸藩主斉昭[なりあき]が1843(天保13)年に偕楽園を開設し、その周辺の桜山・丸山を含めて常磐(ときわ)公園という。この絵は、斉昭が江戸・駒込の藩邸に幽居の身となった際、斉昭を慰めるために、「四季之図」が描かれ、献上したものとの言い伝えがある。なお図中左上に、1851(嘉永4)年松梼清章の識語としてこの「四季之図」由来が記されている。

亘 セン幽 [わたり せんゆう]1810(文化7)年〜1877(明治10)年
名は僖左衛門[きざえもん]。現在の那珂郡大宮町若林に生まれる。画を好み萩谷セン喬[はぎのや せんきょう]の門に入り、写実的な密画を得意とした。絵のかたわら検地の仕事もした。



春秋山水図屏風 (しんじゅうさんすいず びょうぶ) その一 田中頼章画

縦189×横381cm

 春と秋の山水図が六曲一双の屏風に各々描かれている。この絵は春霞のかかった風景に桜が咲き木々の息吹きを感じされる作品である。
 作者の田中頼章[たなか らいしょう](1866−1940)は日本画家、名は大治郎、島根県に生まれる。17才の時森寛斎[もり かんさい]に師事し、のち上京し川端玉章[かわばた  ぎょくしょう]の門に入る。明治40年より三度、御前揮毫(ごぜんきごう)を拝命し、帝展審査員となる。この屏風は、明治天皇より当館創立者の田中光顕へ御下賜(ごかし)されたものである。







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